ライターという肩書と仕事を得てから感じる寂しさ。そして文章が持つ無限の可能性。
僕は文章を書くことが何よりも好きだ。
「文章を書くために生まれてきたのではないか」と、たまに錯覚するほど文章を書くことが苦にならない。
ブログも仕事も、「やるべきタスク」という差し迫った気持ちは特にない。
ただ好きで書いている。
ブログをもっと多くの人に読んでもらいたい。
僕が記事を書くことで、企業のメディアをもっと拡大させたい。
どの媒体で文章を書くにしても、時間を割いて読んでくれる読者に、少しでも役に立つ情報を与えたい。
僕の文章を読んでくれるその瞬間は、日頃の苦しみとか悩みとかからは解放されて、少しでも心が落ち着くような、そんな時間になって欲しいという思いで書いている。
しかし、よく最近思うのはライターという職業の孤独感についてだ。
それは二つの意味での孤独感。
1つ目は、10年前、高校生だった頃の僕はもういないんだという孤独。
2つ目は、「ライター」は凄いと思われている孤独。
僕が高校生の頃は、文章が大嫌いだった。
活字が大嫌いだったのだ。
国語と英語の偏差値は37。
活字拒絶症を持っていたので、そもそも文章を読んでも全く頭に入ってこない。
古文なら、問題文の前にあるリード文を読んでも、登場人物が多すぎて、何が何だかわからない。
頭の中で、誰が誰にどんな感情を抱いていて、どんな立場で、どんなことが起こっているのか。
何回読んでも頭に入って来なかった。
もちろん本文に入っても、普段は使わない言葉ばかりだから、一行で読むことを諦め、センターはカンでマーク。記述なら、記号だけ適当に書いておわり。
英語も全く同じだ。
現代文も、見開き一面に広がる活字に圧倒され、拒絶反応を示す自分を一旦押さえつけて問題に取り組まないといけなかった。
逃げようとする自分を押さえながら文章を読み進めていくが、頭には何も入ってこない。
日本語なのに、何を言っているのかさっぱり理解できない。
テストを返却された時の結果は燦々たるものだった。
これは10点満点のテストなのではないだろうか?
と疑うような結果が返ってくるのだ。
受験なんか大嫌いだったし、文章なんか大嫌いだった。
しかし、僕が嫌いなのは文章を無理やり読まされることで、文章を読むことは別に嫌いではなかった。
当時の彼女に小説を読めと言われて、高校1年にして初めて、文庫本を一冊読破した。
山田雄介の『リアル鬼ごっこ』だ。
一言で感想を言うと、面白かった。
彼女は、活字拒絶症の僕を配慮した上で、読みやすく、そして僕がのめりこめるであろう作家さんを選んでくれたんだと思う。
それから、僕は山田雄介の本を読み漁った。
ここで、僕は活字拒絶症ではないのだと思えるようになった。
読みたいと思った文章なら、普通に読めたから。
しかし、読みたくないものは全く読めないので、受験では国語と英語の偏差値は37のまま最後の最後まで凍り付いていた。
おそらく、速読を会得した今でも偏差値37だと思う。
受験生の頃は、偏差値が全てだった。
大学に行くという常識を押し付けられ、それが当たり前で、それ以外の選択肢は与えられず、とにかく勉強を頑張り、成績を上げることが正義だった。
しかし、その常識は当時の僕にとっては辛い現実だった。
高校三年生の頃から浪人時代にかけて、英語と国語は、一日に7時間は勉強していたと思う。
ひたすら単語を覚えて。文法を覚えて、過去問も20年分は解いた。
でも、いくらやっても初見の問題では活字拒絶が発病し全く手が付けられなくなるのだ。
その経験は未だに僕のトラウマとして心に深く刻まれているし、未だに英語と国語の問題を見る度に、緊張で頭がおかしくなりそうになる。
数学や理科が得意だったのが救いだった。
こうして昔を思い返せば、昨日のことのように鮮明に受験生時代のトラウマが蘇る。
しかし、すぐに我に返ることがある。
もうあの日々は終わったんだと。
今は無理に問題を解く必要もないのだと。
あの時の苦しみは、もう消えたんだと。
そして、僕は過去の自分を遠い目で見つめる。
今は、書くことが楽しくてしょうがない自分。
昔は読むことに恐怖すら感じていた自分。
「受験」という閉鎖的な環境から解き放たれるだけで、こんなにも「文章」というものの捉え方が変わるのかと。
人は急な変化に対応するのは困難だ。
その急な変化を実感した時に湧き出てくるのが、「過去との決別」に対する孤独感だった。
さらに「過去との決別」を実感させるのは、僕の心の変化だけではない。
周りの対応の変化もそれに拍車をかけた。
ライターという仕事に対して、僕は誇りを持っているのだが、それを語る度に人からアドバイスを求められる。
「どうすれば文章が上手くかけるようになりますか?」
「言葉がなかなか出てこないんです。どうすればいいですか?」
「途中で何が言いたいか分からなくなります」
「レポ―トの書き方を教えて下さい」
【文章の書き方が知りたい方はコチラ】
このような質問を度々受けるようになった。
間違いなく僕よりも、国語の偏差値が高い人たちからだ。
頼ってもらえるのは凄く嬉しい。
だから全力で、相手が求めていることも答える。
そこまでは良い。
そこまでは良いのだ。
問題はその後だ。
「やっぱすごいですね」
「才能としか思えなくなってきた」
「流石プロの方は違う」
文章に関してこのような言葉をかけられることを僕は一番嫌う。
文章で人に見上げられるのが嫌なのだ。
仕事はもちろん成果を出すことが求められるので、当然「この人に任せて良かった」と思ってもらえるように、最大限の実力を発揮する。
しかし、仲の良い友達に見上げられるのは絶対に嫌だ。
いや、たとえ企業の方であっても、プライベートの場で「文章の才能がある」だなんて紹介もされたくなければ、そう思われたくもない。
なんというか、距離の隔たりを感じてしまう……。
「すごい人」
「あの人は文才があるから」
「特別だから」
「汎人にとっては、小説書けるだけでもう天才」
このような言葉が、僕を孤独にする。
人よりも秀でたいけど、天才とは思われたくはない。
誰にも負けたくないけど、凄いとは思われたくない。
僕は誰もが親近感を持てる「普通」の人間でいたい。
「あの人ができるなら私にもできそう」
「あいつでもできるんだから、俺でもできるに決まってる」
そんな風に思って欲しいのだ。
人一番強いのは「文章に対する愛情」だけで、僕に文章の才能なんて全くない。
むしろ、どんだけ頑張っても偏差値37の凡人以下の落ちこぼれ。
そんなやつにでも、人の心を動かす文章が書けて、文章を仕事にすることができるなら、ライターの道もありかもしれない。
そんな風に、書くことをもっと身近に感じてもらいたい。
そして、そのきっかけを作りたいのだ。
僕は、誰かに文章を書く希望を与える人になりたい。
いろんな人に、書く喜びを知ってもらい、書く楽しみを覚えてもらい、書くことを通して自分なりの価値を発揮してほしい。
自分の中にある、自分だからこそ表現できる感情や価値観、経験を思うがままに発信できる最強の武器が文章。
だから「あの人は特別」「あの人だからライターができる」「才能がないとライターにはなれない」と思って欲しくない。
もし文章を書くことを仕事にしたいけどできない人は、絶対に諦めて欲しくない。
だって、活字拒絶症でもライターにはなれるんだから。
書くことが好きなら、ずっと書き続けて欲しいと思う。
体力や記憶力は衰えるけど、文章力に衰えはない。
何歳になっても、書けば書くほど上達するのが文章力だ。
お金もかからないし、どこでも書ける。
そして何より、言葉を上手に扱うことができればメリットしかない。
プレゼンで発表するときのレジメや、メール文、企画書、レポート。
生きていれば必ず誰もが言葉を扱う。
文章を書くスキルがあればあるほど、自分のためになる。
SNSが発達した今の時代なら、自分が生み出した言葉をいろんな人に触れてもらえて、いろんな人に影響を与えることができる。
だから僕は死ぬまで書くことをやめる気はないし、いろんな人にもっといい影響を与えるために、文章力を磨き続ける。
言葉が持つ力を活かし、僕が作った文章が誰かに良い影響を与えたなら、その文章には価値が宿る。
多くの人の心を動かすほど、その文章の価値は上がる。
価値の高い文章を書くほど、僕は文章に活かされる。
人間に寿命はあるけど、文章に寿命はない。
僕が死んでも、僕が書いた文章は一生残る。
僕がいなくなっても、僕の価値は一生残る。
「文章を活かし、文章に活かされる人生」
そんな一生を遂げることが僕の理想の生き方です。
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